感性の錆、浮かせて落とす。
- 2014/10/08
- 14:14
今回は物作りにおける感受性に関した考察になります。
少々長くなりますが、若い頃の感覚が分からなくなってきた方は是非お付き合い頂きたいです。後半何故かキレます。

パクリ・オマージュ。
創作を嗜む人間にとってもそうでない者にも身に覚えのある事だと思われる。殊更それを強く意識するのは10代の思春期である。絵や小説に於ける模倣もファッションに於ける模倣も本質的な性質としては全く同質のものである。それは人間の憧れという感覚が発生させる現象だからだ。
憧れとは即ち同一化衝動である。
本質的な部分で人は憧れたものになりたい、一体化したいという衝動を抱えている。例えば一つあなたの憧れを思い浮かべて頂きたい。あなたは絶対になりたくない人物に憧れを抱く事はないと私は断言できる。憧れとは本能である。人は本能を抑え込む事は出来るが、それを精神によって意図的に失くす事は出来ない。人は怒るから、怒らないように努めるのである。話しを戻そう。
憧れた相手に対して「別に自分がなりたい訳ではない」と思った諸兄。その結論に至る前に、それに対し「社会的に不可能」「現実的に無理」「もしも自分がなったとしたら逆に苦痛」等の思考をバイパスしていないだろうか。それは理性的な判断ではあるが、結果として行っているのは否定の理由作りでしかないとお分かり頂けるだろうか。
そういった思考に至る際、人間は対象のリスク等のネガティブな要素をピックアップしていく。それは肉体に於ける正しい反応だ。リスクヘッジこそ生物としての人間の思考理由なのだ。ポジティブな希望的観測だけを見つめる事を考えると言いはしない。
「別に自分がなりたい訳ではない」と考えた方々は、以上の点を踏まえた上でもう一度対象を観察して欲しい。自分が対象自体になりたい訳でないなら、対象のどの部分を自身に取り入れたいのかを。
これは純粋に喝采を浴びたい、ちやほやされたい、といった部分を求めている事もあるだろう。
ここまででハッキリさせなければならないのは、憧れに対して自分が求めている部分を偽りなく明確にすることだ。
少年期に於ける模倣
十代は他者を模倣する時代だ。学生時代に音楽を始めた人々を見るとそれらは非常に明解だろう。彼等は憧れに対して、五感的にかなりストレートな形でアプローチをかけている。
上手い者は巧妙に自身の技術に落とし込んで模倣し、下手な者は単純に表面的な模倣を試みる。本質的には前述したように同様の衝動が起こす行動だ。
十代に於いて後者は「パクリ」「猿真似」等と称され非難を受ける場合が多い。コミュニティから放逐される事もままあるだろう。これらの状況は同一化とは逆に、個人を確立する為に発生する。情報や技術はその発表速度が重要度を左右する。これはコミュニティ内でのヒエラルキーにも直結し、それより外側の社会でも同様の性質を持つ。無意識の内に人は自身の先駆する部分を財産と認識している。表面を模倣する者はその財産を脅かす存在として、技術を持つ者達から相応の態度をとられる。
だが今回の話しに関してそれらの善悪、前者後者の違いは重要ではない。
創作をする我々が考えなければならないのは今の自身の感性についてだ。
何故ならそれは今私達が作ろうとしているモノに直結した要素だからだ。それに関して、我々は今一度模倣の時代に立ち戻る必要がある。
現状、年齢を重ねていく内に自身の感性が鈍っている、自分が何を描きたいのか分からなくなっている、書いていて何が面白いのか分からなくなる、などと感じる事はないだろうか。
私は20代も半ばに入り、それを感じる機会が多くなった。
我々は経験の中で新しい幾つもの情報、技術と邂逅を果たす事で成長し、身の振り方を覚えてきた。だが現状それに覆われる形で感性が鈍化している。これはこれからも鈍化し続けるだろうし、生きていく上で必要な事だ。
だからと言ってむざむざと喪っていいものではない。絶対に。感性は我々の核だ。
歴史の中で幾度も語られる内に陳腐化してしまった言葉がある。だが逆に言えば、往々にして先駆者たちは後続の我々に対して本当に必要な事を常に語りかけてきた。
『子供心を忘れない』
サブイボが出るほど陳腐な言葉だが、その本質を理解した場合この言葉は創作をする我々にとってかけがえのない金言となるだろう。
断言するが、今の我々がカッコイイ、カワイイと感じる核の部分は幼少期から少年期にかけて形成された。感性の核は此処にある。
だが今の私達は当時を振り返る場合、気恥ずかしさを覚える。十代は幼稚な模倣と未熟な技術の集大成であり、当時ごまかしてきた巧妙な模倣も当事者からすればその稚拙さが一目瞭然だからだ。さらに当時の狭い視野で記された文面には、経験の足らないあまりにも剝き出しな思考が克明に記されている。
我々は自分自身でありながら、あまりに今と乖離した馬鹿過ぎる若者の姿を見るだろう。
だが、当時は憧れたものに対して我々はストレートだった。それがほとんどそのままの姿で残っている。何故なら当時の未熟な私達はオリジナリティを存分に注げるほど技術も経験もなかったからだ。ほとんど真似るだけで精いっぱいだった事だろう。それでいいのだ。問題は今だ。
それを元に改めて当時なりたいと願った憧れを振り返り、今分解しなければならない。振り返るだけでは不十分だ。「懐かしいね」で終わらせてしまっては何一つ意味がない。私個人は貪欲でありたい。最前線で戦うアスリートやアーティストのような赤熱したテンションで生きてみたい。人生は一度きりだ。もっと今以上の何かになりたい。ならばまずは自身のルーツを踏み台にする必要がある。今のガキの考える事は分からないが、ならばかつてのガキならどうだろうか。分からないなら今分かろう、他の人間ならまだしも自分自身ならば理解出来るとっかかりが用意出来る筈だ。理解出来たのならば今の子供の求めるものも分かるようになる。人間という種族の本質は100年スパン程度では変わらないからだ。
憧れに対して正しく整理する必要がある。当時、何に憧れたのか、その憧れの何を自分が求めいてたのか。自分が何になりたかったのか。
職業や事柄は年代に応じて変化するが、その役割自体は外側を変えたまま同じ事を分担しているに過ぎない。
仮に喝采を浴びたい、ちやほやされたいが本質だったとしてもそれは真実の衝動だ。それは使える真実だ。立場やあり方は変わっても役割は変わらない。当時の貴方と本質的に同じ憧れを持った子供達は必ず存在する、成長した同年代も年長者もいるだろう。根源的な感性に対する理解は年代を問わない。
どのような過去であれ、当時憧れたもの、求めたものを正しく理解する事は今の貴方の感性を鋭くする。感性とは自身の求めるもの、他者の求めるものを明確に把握し生み出す能力だ。自分にしか理解できないものは他者にとっては残念ながらゴミだ。貴方が他者にも理解出来るよう戦った時、初めて他者にとっても価値が生まれる。
自分にしか理解できないものも確かに存在するだろう、それは価値としては無だがそれ故に評価の外にある貴方自身とも言える。否定はしない。
だがそんなもの言い訳だ!!!
創作物として自身の外側に生み出した以上!!!あなたはそれが理解される事を望んでいる!!!共感される事を望んでいる!!!誰かに楽しんでもらう事を望んでいる!!!何よりも生み出した作品そのものが誰かに分かってもらう事を何よりも望んでいる!!!我々が生まれる事に意味はないが物語は生まれた瞬間から絶対に意味がある!!!自覚的であれ無自覚であれ意味に伴う役目があるのだ!!!
生みの親としてその責務を果たさせてやろうとは思わないのか、いいや思う筈だ!!!嘘をつくな!!!だってお前ら誰かが作ったものが好きで、自分で作る事が好きじゃないか!!!
稚拙でいい陳腐で構わない、ただ自分を守る為に理解から遠ざかるのは何も良い結果にはつながらない。
どうか理解される事を、それに対する努力を諦めないで欲しい。話せば分かるのが人類の売りだ。
試して欲しい、かつての自分を理解して、かつての感性を取り戻す事を。
『子供心』とやらを手に入れれば我々は老人になろうと天才とだって競い合えるはずだ。
最後に、
昨日財布落としたほんぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
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少々長くなりますが、若い頃の感覚が分からなくなってきた方は是非お付き合い頂きたいです。後半何故かキレます。

パクリ・オマージュ。
創作を嗜む人間にとってもそうでない者にも身に覚えのある事だと思われる。殊更それを強く意識するのは10代の思春期である。絵や小説に於ける模倣もファッションに於ける模倣も本質的な性質としては全く同質のものである。それは人間の憧れという感覚が発生させる現象だからだ。
憧れとは即ち同一化衝動である。
本質的な部分で人は憧れたものになりたい、一体化したいという衝動を抱えている。例えば一つあなたの憧れを思い浮かべて頂きたい。あなたは絶対になりたくない人物に憧れを抱く事はないと私は断言できる。憧れとは本能である。人は本能を抑え込む事は出来るが、それを精神によって意図的に失くす事は出来ない。人は怒るから、怒らないように努めるのである。話しを戻そう。
憧れた相手に対して「別に自分がなりたい訳ではない」と思った諸兄。その結論に至る前に、それに対し「社会的に不可能」「現実的に無理」「もしも自分がなったとしたら逆に苦痛」等の思考をバイパスしていないだろうか。それは理性的な判断ではあるが、結果として行っているのは否定の理由作りでしかないとお分かり頂けるだろうか。
そういった思考に至る際、人間は対象のリスク等のネガティブな要素をピックアップしていく。それは肉体に於ける正しい反応だ。リスクヘッジこそ生物としての人間の思考理由なのだ。ポジティブな希望的観測だけを見つめる事を考えると言いはしない。
「別に自分がなりたい訳ではない」と考えた方々は、以上の点を踏まえた上でもう一度対象を観察して欲しい。自分が対象自体になりたい訳でないなら、対象のどの部分を自身に取り入れたいのかを。
これは純粋に喝采を浴びたい、ちやほやされたい、といった部分を求めている事もあるだろう。
ここまででハッキリさせなければならないのは、憧れに対して自分が求めている部分を偽りなく明確にすることだ。
少年期に於ける模倣
十代は他者を模倣する時代だ。学生時代に音楽を始めた人々を見るとそれらは非常に明解だろう。彼等は憧れに対して、五感的にかなりストレートな形でアプローチをかけている。
上手い者は巧妙に自身の技術に落とし込んで模倣し、下手な者は単純に表面的な模倣を試みる。本質的には前述したように同様の衝動が起こす行動だ。
十代に於いて後者は「パクリ」「猿真似」等と称され非難を受ける場合が多い。コミュニティから放逐される事もままあるだろう。これらの状況は同一化とは逆に、個人を確立する為に発生する。情報や技術はその発表速度が重要度を左右する。これはコミュニティ内でのヒエラルキーにも直結し、それより外側の社会でも同様の性質を持つ。無意識の内に人は自身の先駆する部分を財産と認識している。表面を模倣する者はその財産を脅かす存在として、技術を持つ者達から相応の態度をとられる。
だが今回の話しに関してそれらの善悪、前者後者の違いは重要ではない。
創作をする我々が考えなければならないのは今の自身の感性についてだ。
何故ならそれは今私達が作ろうとしているモノに直結した要素だからだ。それに関して、我々は今一度模倣の時代に立ち戻る必要がある。
現状、年齢を重ねていく内に自身の感性が鈍っている、自分が何を描きたいのか分からなくなっている、書いていて何が面白いのか分からなくなる、などと感じる事はないだろうか。
私は20代も半ばに入り、それを感じる機会が多くなった。
我々は経験の中で新しい幾つもの情報、技術と邂逅を果たす事で成長し、身の振り方を覚えてきた。だが現状それに覆われる形で感性が鈍化している。これはこれからも鈍化し続けるだろうし、生きていく上で必要な事だ。
だからと言ってむざむざと喪っていいものではない。絶対に。感性は我々の核だ。
歴史の中で幾度も語られる内に陳腐化してしまった言葉がある。だが逆に言えば、往々にして先駆者たちは後続の我々に対して本当に必要な事を常に語りかけてきた。
『子供心を忘れない』
サブイボが出るほど陳腐な言葉だが、その本質を理解した場合この言葉は創作をする我々にとってかけがえのない金言となるだろう。
断言するが、今の我々がカッコイイ、カワイイと感じる核の部分は幼少期から少年期にかけて形成された。感性の核は此処にある。
だが今の私達は当時を振り返る場合、気恥ずかしさを覚える。十代は幼稚な模倣と未熟な技術の集大成であり、当時ごまかしてきた巧妙な模倣も当事者からすればその稚拙さが一目瞭然だからだ。さらに当時の狭い視野で記された文面には、経験の足らないあまりにも剝き出しな思考が克明に記されている。
我々は自分自身でありながら、あまりに今と乖離した馬鹿過ぎる若者の姿を見るだろう。
だが、当時は憧れたものに対して我々はストレートだった。それがほとんどそのままの姿で残っている。何故なら当時の未熟な私達はオリジナリティを存分に注げるほど技術も経験もなかったからだ。ほとんど真似るだけで精いっぱいだった事だろう。それでいいのだ。問題は今だ。
それを元に改めて当時なりたいと願った憧れを振り返り、今分解しなければならない。振り返るだけでは不十分だ。「懐かしいね」で終わらせてしまっては何一つ意味がない。私個人は貪欲でありたい。最前線で戦うアスリートやアーティストのような赤熱したテンションで生きてみたい。人生は一度きりだ。もっと今以上の何かになりたい。ならばまずは自身のルーツを踏み台にする必要がある。今のガキの考える事は分からないが、ならばかつてのガキならどうだろうか。分からないなら今分かろう、他の人間ならまだしも自分自身ならば理解出来るとっかかりが用意出来る筈だ。理解出来たのならば今の子供の求めるものも分かるようになる。人間という種族の本質は100年スパン程度では変わらないからだ。
憧れに対して正しく整理する必要がある。当時、何に憧れたのか、その憧れの何を自分が求めいてたのか。自分が何になりたかったのか。
職業や事柄は年代に応じて変化するが、その役割自体は外側を変えたまま同じ事を分担しているに過ぎない。
仮に喝采を浴びたい、ちやほやされたいが本質だったとしてもそれは真実の衝動だ。それは使える真実だ。立場やあり方は変わっても役割は変わらない。当時の貴方と本質的に同じ憧れを持った子供達は必ず存在する、成長した同年代も年長者もいるだろう。根源的な感性に対する理解は年代を問わない。
どのような過去であれ、当時憧れたもの、求めたものを正しく理解する事は今の貴方の感性を鋭くする。感性とは自身の求めるもの、他者の求めるものを明確に把握し生み出す能力だ。自分にしか理解できないものは他者にとっては残念ながらゴミだ。貴方が他者にも理解出来るよう戦った時、初めて他者にとっても価値が生まれる。
自分にしか理解できないものも確かに存在するだろう、それは価値としては無だがそれ故に評価の外にある貴方自身とも言える。否定はしない。
だがそんなもの言い訳だ!!!
創作物として自身の外側に生み出した以上!!!あなたはそれが理解される事を望んでいる!!!共感される事を望んでいる!!!誰かに楽しんでもらう事を望んでいる!!!何よりも生み出した作品そのものが誰かに分かってもらう事を何よりも望んでいる!!!我々が生まれる事に意味はないが物語は生まれた瞬間から絶対に意味がある!!!自覚的であれ無自覚であれ意味に伴う役目があるのだ!!!
生みの親としてその責務を果たさせてやろうとは思わないのか、いいや思う筈だ!!!嘘をつくな!!!だってお前ら誰かが作ったものが好きで、自分で作る事が好きじゃないか!!!
稚拙でいい陳腐で構わない、ただ自分を守る為に理解から遠ざかるのは何も良い結果にはつながらない。
どうか理解される事を、それに対する努力を諦めないで欲しい。話せば分かるのが人類の売りだ。
試して欲しい、かつての自分を理解して、かつての感性を取り戻す事を。
『子供心』とやらを手に入れれば我々は老人になろうと天才とだって競い合えるはずだ。
最後に、
昨日財布落としたほんぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
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